2012年12月08日
屋代城跡(千曲市)
鷲尾城跡から近くの屋代城跡へ、
しなの鉄道「屋代駅」の東側の山、一重山が屋代城跡。標高458m、比高100m、登城時間20分
一重山は南の有明山から北に延びる尾根上にあり、二つのピークがある。
北方のピークに北城、南方の山頂に南城(主郭)を持つ「一城別郭」といわれる。

より大きな地図で 屋代城 を表示 尾根北端から登城(成田山不動尊) ここに駐車↑

尾根にいくつかの郭があり、墓地、神社になっていた ↑矢代神社 旧御岳神社 ここまで北城 この先一旦下ってまた登り南城へ

三郭から二郭方面 ↑ 堀切 立札があった ↑ 土塁

二郭 一段上がって主郭になっている NHKのアンテナが 主郭内部 説明版 ↑ 南に有明山
↓
千曲市指定史跡 屋代城跡 指定 昭和48年10月24日
屋代城は、一重山全域に城郭施設を設けた山城である。尾根筋に12の曲輪が南から北に連続し、曲輪と曲輪の間は堀切や
竪堀で遮断されているが、土橋で連結しているところもある。曲輪の周囲の斜面には、この城の大きな特徴である雛壇状の腰曲輪
(削平地)が設けられている。主郭の周囲には、土留めの石垣が積まれている。
この屋代城は、15世紀後半代の応仁・文明の乱のころ、村上氏の代官として活躍した屋代氏が村上氏と結び、海野・井上氏と
抗争し、その必要性から屋代氏によって築城されたと考えられている。天文22年(1553)4月に、村上義清の拠点孤落城・葛尾城
が落ち、村上氏は塩田城に逃走した。この戦乱の中で屋代氏は武田方に転身するとともに屋代城を去って、新たに与えられた
荒砥城を拠点とすることとなり、屋代城は廃城になったと推定される。屋代氏は戦国期において、村上氏・武田氏・上杉氏・徳川氏と
次つぎに主人を替えた典型的な戦国武将といえる。
こうした地方武将の居城であった屋代城は、戦国末期の改造の手が加えられてはいない。また、屋代城の特徴である雛壇状の
腰曲輪は、信濃の城郭の1つの基準型であり、重要な山城である。 千曲市教育委員会

主郭の石積み
↓ 横から

咲き残っていた花

リュウノウギク アワコガネギク
しなの鉄道「屋代駅」の東側の山、一重山が屋代城跡。標高458m、比高100m、登城時間20分
一重山は南の有明山から北に延びる尾根上にあり、二つのピークがある。
北方のピークに北城、南方の山頂に南城(主郭)を持つ「一城別郭」といわれる。

より大きな地図で 屋代城 を表示 尾根北端から登城(成田山不動尊) ここに駐車↑


尾根にいくつかの郭があり、墓地、神社になっていた ↑矢代神社 旧御岳神社 ここまで北城 この先一旦下ってまた登り南城へ


三郭から二郭方面 ↑ 堀切 立札があった ↑ 土塁


二郭 一段上がって主郭になっている NHKのアンテナが 主郭内部 説明版 ↑ 南に有明山
↓
千曲市指定史跡 屋代城跡 指定 昭和48年10月24日
屋代城は、一重山全域に城郭施設を設けた山城である。尾根筋に12の曲輪が南から北に連続し、曲輪と曲輪の間は堀切や
竪堀で遮断されているが、土橋で連結しているところもある。曲輪の周囲の斜面には、この城の大きな特徴である雛壇状の腰曲輪
(削平地)が設けられている。主郭の周囲には、土留めの石垣が積まれている。
この屋代城は、15世紀後半代の応仁・文明の乱のころ、村上氏の代官として活躍した屋代氏が村上氏と結び、海野・井上氏と
抗争し、その必要性から屋代氏によって築城されたと考えられている。天文22年(1553)4月に、村上義清の拠点孤落城・葛尾城
が落ち、村上氏は塩田城に逃走した。この戦乱の中で屋代氏は武田方に転身するとともに屋代城を去って、新たに与えられた
荒砥城を拠点とすることとなり、屋代城は廃城になったと推定される。屋代氏は戦国期において、村上氏・武田氏・上杉氏・徳川氏と
次つぎに主人を替えた典型的な戦国武将といえる。
こうした地方武将の居城であった屋代城は、戦国末期の改造の手が加えられてはいない。また、屋代城の特徴である雛壇状の
腰曲輪は、信濃の城郭の1つの基準型であり、重要な山城である。 千曲市教育委員会

主郭の石積み
↓ 横から

咲き残っていた花


リュウノウギク アワコガネギク
Posted by hossy at 19:28
│千曲市